きっかけは、恋する気持ちと、ひとかけのチョコレート。
それだけで、誰かを幸せにできる。
『臆病者、虫けらの愛を見せろ』
ツー。
パリッ。
ベリッ。
板チョコの使い勝手の悪さ、でもこの幸せ感じさせる力。
矛盾してるけど、なんだか好きなんだな。
「あっつー…」
蝉の鳴き声が、このただでさえ厳しい暑さを引き立てる。
学校の正門の前、あたしの真上には大きな木がそびえ立っていた。
この鳴き声の大きさと壮大さから、きっとこの木には相当な数の蝉がくっついてて、そんでもって、生きるか死ぬかの覚悟で一生懸命に、心から叫んでいるんだ、きっと。
蝉も何かと大変だ、大人になったらたった一週間だけの命なのに、鳴くか鳴かないかが死活問題。
もし身体の調子が優れない蝉がその中にいたとして、どうしても腹が痛くて、それでもどうしても鳴かなければいけない状況下に置かれているのならば……そしてその蝉が自分だったならば……どうするのだろう、あたしは。
うーん、うん、うーん、と唸りながら、”もしもあたしが蝉だったならば”の壮大なストーリーを頭の中に浮かべていた。
7月の炎天下、汗がにじむ制服の白いブラウス、汗ばむ腕。
ヤンキー座りして、割ったチョコレートをかじる。
「またチョコ食ってる」
聞き慣れない声が真上からする。
めんどうくさそうに顔を上げると、そいつはあたしを見下ろしていた。
木々の葉から漏れる日差しが、まぶしかった。
蝉は相変わらず一生懸命鳴いている。
「山っち」
日差しに細めた目は、かろうじて奴の姿をつかみ取る。
部活が終わった帰りだろうか、それとも奴も夏期補講に出ていたのだろうか。
「部活?」
「うん」
山っちは返事をしながら、同様にヤンキー座り。似合う。すぐ隣に並ぶあたしに比べたら、随分と馴染んでいる。
「チョコ、そんなにうまい?」
「食べる?」
「食べる」
ツー。
パリッ。
ベリッ。
また同じ音を繰り返すと、山っちに包み紙ごと渡す。体温が上昇して、ほんのちょっとの間持っているだけでも指先の熱でチョコは溶け出す。
自分も溶けそうだった。手渡すときに触れた、山っちのごつい指先で。
山っちは無言で受け取ると、すぐにチョコをかじり出す。熱で少し溶けて、パリっとキレの良い音はしなかった。チョコは柔らかく折れた。
あたしは山っちを見ていた。こんなに近くに山っちがいる。遠くから見るしかなかった顔が、こんなに近距離にある。夢や想像では何度も近くで見た顔。ふさふさの柔らかそうな髪の毛。太い腕。硬そうな肩。顔がにやけそうになる。かろうじて我慢して、火照る頬は暑さのせいにしよう、そう言い聞かせる。
「甘い」
山っちはひとかじりだけしたチョコを、あたしに差し戻した。眉間にしわがよっている。甘いもん嫌いなのかな。じゃぁなんで食べたんだろう。
差し出された食べかけのチョコを受け取ると同時に、山っちは立ち上がった。
じゃ、と、ほとんど無言で向こうへと行ってしまった。
手元に残されたチョコを、少しかじった。
甘かった。
あたしは山っちが好きだ。
いつからかはわからないけど、でも最近ぼんやりと、そう思い始めた。
気付くと案外、深まるのは早いもので、夢の中にも出てくるようになった。毎日、何をしていても思考の片隅に山っちがいた。片隅の山っちは、いつも横顔だった。真正面の顔をあまり知らない。同じクラスなのに。彼と話すときは、どこかちゃんと向き合ってない感じがして、ときどきふらっと、あの夏の日のようにあたしの前に現れる。ふらっと、いつもふらっと、気分で現れて、気分で去っていく。残していくものは、いつも切なさだけだった。
教室でも、いつもふらっとあたしに話しかけて、ふらっとどっか行く。あたしもそうだった。ふらっと、とは心の中ではいかないにしろ、ふらっと、を装って話しかける。そしてふらっと去る。
夜もそうだった。何気なく電話がかかってきたかと思えば、どうでもいい話をしてふらっと切る。話の内容は特に覚えてない。そのくらい、「ふらっと」した感じだった。あたしと、山っちの関係。
それでも、あたしの名かでは山っちはもちろんふらっとしたものではない。いつだって心の中にいる。それでも、このままでも別にいいと思ってるあたしがいた。
都合のいいやつ?
なんとでも言え、あたしがこれでいいって言っているんだからこれでいいんだ。
だから誰にも言わない。
言うのはもったいない。
あたしと山っちだけの秘密みたいで、なんだかわくわくするじゃん。
高校三年になって、山っちとクラスが離れた。
ふらっとした関係は、ますますふらっとした関係になった。
「ねぇ」
「ん?」
「試合見に来てよ」
久しぶりの山っちからの電話は、なんだか少し感じが違った。いつもの、眠たそうな声で真夜中の電話。それは決して違わないんだけど、あたしにはわかった。あたしだけがわかる。もうすぐ三年の運動部は引退だから、インハイに向けて、山っちの所属するバスケ部の練習もきっとハードなんだろう、声が疲れている。声だけで、すぐに山っちの様子がわかる。もうすぐ、このふらっとした関係は一年を迎える。
こんなことを言われたのは始めてだった。びっくりした。始めて内容のある話をするような、そんな気がした。
「うん。行く」
「今度の日曜日」
「うん」
「K高校で、あるからさ」
「うん」
「たぶん、最後の試合になる」
バスケ部が次の県大会なる試合で、県の強豪とあたることは噂で聞いていた。
トーナメント制だから、負けたらバスケ部の三年生はそれで引退だった。馬鹿なくらいバスケが好きだったしうまかった山っちが、始めてバスケに関して弱音を吐いた気がした。
あえて、そこには触れなかった。
「絶対、見に行く」
「うん」
ベットサイドの明かりだけつけた、薄暗い部屋の中で、空けた窓から蛙と虫の鳴き声だけが聞こえる。そろそろ梅雨がやってくる。そうしたら夏がやってくる。去年、山っちを好きだと気付いた、あの夏が、やってくる。
「まる」
山っちが、あたしの名を呼んだ。名字の丸山を縮めた、「まる」。
「ありがとな」
電車に一時間も乗って、K高校まで行った。
苦痛じゃなかった。
試合は、ボロ負けだった。
それでも、山っちはかっこよかった。すごくうまかった。素人のあたしが見ても、周りと明らかに動きが違った。
ただ相手の格が違いすぎた。それも、素人が見てもわかった。
バスケをしている山っちが、本当の山っちなんだと思った。いつもの眠そうな顔とは全然違う表情。キラキラ輝いていた。好きなことを一生懸命にやっている山っちは、あたしなんかと全然違う。同じ毎日をただ繰り返して、一体あたしは何をやってきたんだろう、そう思わせる。山っちと同じ場所で、同じ2年間を過ごしてきたのに、あたしと山っちはこんなに違う。
少しショックだった。山っちについて知っていることって、これっぽっちなんだ。ほんの少しだったんだ。あたしはいつもの間にか、山っちを全て知っている気になっていたのかもしれない。自負していたのかもしれない。
試合の合間、マネージャーの女の子と笑顔で話してる山っちを見て落ち込んだ。他にも、山っちが他の女の子と話しているのを見たことはある。だけど落ち込んだのは、きっとマネージャーの子も山っちのことが好きなんだろうと気付いたからだった。
自分も何かの試合に負けた気分だった。
すごく、ぐったりする感じ。
試合が終わったあと、山っちには何も話しかけないまま体育館を去った。話しかける勇気など、全くなかった。試合に負けた山っちに、なんと言ったらいいかもわからなかった。
夜、電話はかかってこなかった。かけもしなかった。
次の日から、あたしは山っちをなぜか避けるようになった。
自分でもわからなかったけど、なんだか山っちを見ると悲しくなった。笑顔で話せる自信などなかった。
一ヶ月くらいたって、梅雨が明けるか明けないかのころ。
例のマネージャーの子が、山っちに告白したという噂を聞いた。
もうずっと、山っちと連絡をとっていない。電話もかかってこないし、かけないし、メールもしてない。もちろん、学校で会っても会話はおろか、目を合わすこともしない。
もう終わりだと思った。山っちは、もうあたしなんか必要としていない、そう思った。
山っちがマネージャーの子にどんな返事をしたかは知らない。知りたくない。でも、あたしと全く連絡を取らなくなったってことは、きっと、そうなんだ。マネージャーの子とつきあったんだ。マネージャーの子、ずっと山っちのこと好きだったらしいし、あたしよりずーっと山っちのことを知っている。ずっと、山っちのそばにいた子。あたしより、ずっとずっと山っちを支えてきた子。
あきらめるしかない。
あたしは所詮、「ふらっと」した関係だったんだ。
ふらっとした関係をどうにかしようとしてきたわけでもない。
マネージャーの子のように、告白する勇気すらない。
雨の強い日だった。とにかくざんざん降りの雨。傘を差していても服や足下が濡れる。
雨のせいで少し肌寒かったその日の放課後、またあの日と同じように校門の前の木々の下で、傘をさして友達を待っていた。去年の夏を、自然と思い出していた。
隣で人の気配がした。
…山っちだった。
周りには、誰もいなかった。
「山っち」
降り続く雨音にかき消されそうな程あたしの声はかすかで小さかった。そのくらいの声しか出ない。
山っちはあたしの方を向くことなく、ずっと真正面を向いていた。
「山っち?」
勇気を出して、もう少し大きな声で呼びかけた。でも声は震えていた。涙が出そうだった。久しぶりに近くで見るその横顔が、愛おしくて愛おしくてたまらなかった。
でも、ゆっくりとこっちを向いた山っちの顔を見て涙は引っ込んだ。
山っちは、泣いていた。
一筋の涙が、山っちのキレイな頬をツー、と下った。
「まる」
「俺のこと嫌いになった?」
なんにも答えられなかった。
どうすればいいかわからなかった。
嫌いになれれば、どれだけ楽なことか。何度も電話しようとした。でも真実を聞くのが怖かった。
言葉の代わりに、あたしも涙が出てきた。
二人は向き合ったまま、何も言わなかった。
あたしは下を向いて、ひたすら山っちの顔を見ないようにしてた。山っちの足下を見てた。
山っちにとって、あたしはなんなんだろう?
マネージャーの子とつきあってるんじゃないの?
あたしはただの友達なんでしょ?
「まる」
もう一回、山っちはあたしの名前を呼んだ。
顔を上げることができなかった。
我慢できなくて、歩き出した。とにかくこの場から逃げ出したかった。
歩き出した瞬間に、強く腕を捕まれた。
「まる」
震えた声が聞こえてきた。
雨で冷えた肌に、山っちの体温がじんわりと伝わってくる。あたたかい。ぐるりと大きな手で捕まれた自分の腕。離したい。けど離したくない。ずっと持っててほしい。
それでもあたしは振り向けなかった。
辛くてしょうがなかった。
なんにも言ってくれない山っちが、すごく悲しかった。きっと、そういうことなんだろう。山っちは、きっとあたしの気持ちに気付いている。山っちはやさしいから、彼女とのこと、言えないんだ…。
そのまま、後ろ手を捕まれたまま、あたしは山っちの方を向かなかった。向けられる顔も、掛けられる大人な言葉も、見つかりはしなかった。頭の中がごちゃごちゃで、あの子と山っちが楽しそうに話しているところや、手を繋いでいるところや、キスをしているところばかりが頭に浮かぶ。腕から伝わってくる体温が、その想像をますますリアルにする。涙が止まらなかった。山っちが、好きで好きでしょうがなかった。
ふいに、腕の束縛が溶けた。するりと、腕が自分のもとに降りてきた。
「…ごめん」
それだけ聞こえてきた。
それ以上聞きたくなくて、走って逃げた。
あたしの気持ちは、ふらっとなんかしていない。
できるなら、蝉のように大声で山っちのことが好きだと叫びたい。
あたしが蝉に生まれてきたら、たとえ一週間で死ぬとしても、ずっとずっと同じことを叫んでる。
山っちが好きだ、そう一心不乱に叫ぶのに。
人間のあたしは、好きだと言う勇気さえない。
これ以上嫌われたくない。山っちに気を遣って欲しくない。
あたしはただ、今まで通り、廊下でちょこっと話したり夜に数分電話するだけでいい。
それだけでいい。
昔みたいに戻れるなら、もう何もいらない。山っちがほしいなんて贅沢は言わない。ただ、笑い合ってる山っちとあたしが、そこにいるだけでいい。
山っちは、あたしにとって眩しすぎる。
しっかり見ていられないほど眩しくて、目を細めるとますます見れなくなる。
キラキラ輝いている山っちに惹かれたのは、きっと自分が輝きたかったからだ。
山っちを好きになれば、自分もキラキラできると思ったのかもしれない。
でもそんなの所詮空想にすぎなかった。
あたしはこんなに泥をかぶっていて、勇気を出すこともできない。
心配ばかりして、失敗を恐れて、現実逃避ばかりする。
臆病者。
あたしは、山っちを好きになって、なにを手に入れたかったんだろう?
走って走って、走りまくって、足がもつれてこけた。
本当に泥をかぶった。
傘がどっかに転がっていって、痛いくらいに大粒の雨が容赦なくあたしをいじめた。
地面にそのままぺたんと座ったまま、傘を拾いに行く気力も起きない。
通り過ぎていく人たちが、じろじろとあたしを見る。
涙と雨がまざって、ちょうどよかった。
このまま雨にあたしの存在全部を浸食していってほしい。
急に雨が止んだ。
「なにやってんだよ」
顔を上げて、涙が止まらなくなった。
山っちが、しゃがんで傘に入れてくれていた。
いつもの、ぼんやりした、優しい顔をしていた。
「やまっち…」
臆病者、虫けらの愛を見せろ。
汚い手で、山っちの白いワイシャツの裾を掴んだ。
「あたし、山っちのことが好き」
抱き寄せられて、そのまま山っちの腕の中で泣いた。
蝉がうるさかった。
7月も半ば。汗が自然とにじむ。
ガサガサとカバンの中をあさり、いつものあのモノを出す。
ツー。
パリッ。
ベリッ。
かじると、甘ったるい。
最近、味覚変わったかも。暑さのせいかもしれないけど、あんまりおいしくない。
「あげる」
割ったばかりの板チョコの残りを渡す。
「え、いらないんだけど」
そう言いながら受け取る山っちは、相変わらずキラキラ眩しかった。
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